旅行は楽しかったのですが、考えてみれば「敬老の日」について思索を巡らした事がないなあと気づき、起源について調べて見ました。
敬老の日とは?
兵庫県多可郡野間谷村で門脇政夫と山本明が1947年(昭和22年)に提唱した「としよりの日」が始まりである。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。これが1950年(昭和25年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないということで1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、1966年(昭和41年)に国民の祝日「敬老の日」となった。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。
兵庫県多可郡野間谷村で門脇政夫と山本明が1947年(昭和22年)に提唱した「としよりの日」が始まりである。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。これが1950年(昭和25年)からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないということで1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され、1966年(昭和41年)に国民の祝日「敬老の日」となった。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。
なるほどねえ…。
「年寄りの知恵を借りる」って老人の存在を好意的に解釈する時に必ず使われるフレーズですね(笑)。
では以下のデータを見てみましょう。
日本人の平均寿命
昭和22年 男=50.06歳、女=53.96歳
平成20年 男=79.29歳、女=86.05歳(2009年7月16日厚生労働省発表)
百歳以上の高齢者の数 男=5447人 女=34,952人
昭和22年 男=50.06歳、女=53.96歳
平成20年 男=79.29歳、女=86.05歳(2009年7月16日厚生労働省発表)
百歳以上の高齢者の数 男=5447人 女=34,952人
野間谷村で「としよりの日」ができた頃と現在とでは、男で29.23歳、女で32.09歳平均寿命が伸びているのです。ほぼ30年分も生きている時間が伸びています。30年って言ったら0歳だった子が結婚して子供が一人くらい居てもおかしくないほどの時間です。しかも平成20年のデータ値は過去最高の値を更新したそうです。そして百歳以上の高齢者が男女合わせて4万399人もいるのです。まったくもって長寿の国日本です。
このデータから様々な事が読み取れますが「敬老の日」に関して読み取れる事はなんでしょうか?
とてもシンプルな答えとして「としよりの日」ができた昭和22年と平成20年では”老人の価値が違う”という事でしょう。昭和22年に70歳の老人は滅多にお目にかかれなかった。希少価値があったわけです。ところが平成20年では70歳の老人がごろごろいる。あっちにもこっちにも居る。希少価値のなくなった老人に「敬愛の念」なんぞ出てこないし、誰でも70の老人になるのだから格別「長寿を祝う」気にもなりません。当然のことですね。
昭和22年では70とかまで生きている人間は非常に少なかった。栄養状態も良くなかったし、医学も現在とは比較にならないほど遅れていた。こういう背景の中で当時70まで生きていられた人と言うのは賢かった証拠であると言えます。これは”学識がある”という意味ではありません。必要な栄養を取り、怪我や病気にならない工夫をして賢く人生を過ごしてきた。学校では教えてもらえないような様々な知恵を蓄え実行してきた賢さという意味です。その賢さを最大限に利用して平均寿命が50歳くらいの中で70まで生きていられたわけです。それ以外に長寿を達成できる理由が見あたりません。昭和より前で長寿を生きていた人というのはたいがいこの賢さを持っていました。
現代はと言えば医療技術の劇的な向上により(厳密には食料事情とかもあるでしょうが)バカでもチョンでも80近くまで生きることができるようになりました。医学をうまく利用すれば90くらいまで楽に生きていける世の中になったのです。データが物語っています。医学の力で長生きできるのだから、長寿に格別の知恵が必要ではなくなりました。つまり今の世の中では「年寄りの知恵を借り」ようにも「知恵を持っていない年寄り」がごろごろいるという現状なのです。
この現状からして我々は”老人”の概念を再構築する必要があるのと思います。通常60歳を過ぎたら”老人”の枠組みで語られるようになります。しかし60から老人指定して「お年寄りを大切にしよう」としたら、一杯居すぎてとてもできません。これからは平均寿命の10歳前から”年寄り・老人”とすべきでしょう。そうすれば平均寿命が伸びても、老人の定義枠もずれ込んで行くため老人対象者が極端に増えることがありません。
そして何よりも老人たちには自分たちが社会の”害”にならないよう努めて生きて頂きたいものです。老人たちの中には自分たちのどんな所作が害になるのかも気づいていない人も多いのではないかと思われます。また、世間に根強く残る「年寄りの知恵を拝借」に対するニーズに現在の老人はまったく答える事ができません。こういう人には教育が必要です。これからは老人教育が積極的におこなわれるべきであると思います。誰もが”老人”という生活をするのは初めてなのです。その教育課程の中で単に老人向け知識を詰め込むだけでなく、社会に”害”にならないような、逆に礎となるような生き方と考え方を積極的に教えて行くことが大切です。
「敬老の日」とは「社会につくしてきた老人」を「敬愛」するための祝日です。「社会に害をなす老人」を「敬愛」する祝日ではありません。ところで社会に害をなす筆頭老人と言えば?
もちろん天命数霊術という害を振りまくあの人のことです!!
誰か教育してください!(爆笑)