前回「最良の運勢」について書きました。読んでいない方は前回を先に読んでください。今回はその続きです。
おいらは随分長いこと”運”について研究してきました。こちらに記した通り望月岳陽はおいらのことを青年だと思っているようですが、おいらは青年などではありません。おいらを青年などと本質を見抜けない望月岳陽らしい判断ですね。おそらく文章の上面だけで判断したのでしょう。研究の過程で姓名判断もひと通り調査しました。そうした調査過程を経ていくつかわかった事があります。
最良の運勢の持ち主とは、言ってみればご都合主義のマンガの主人公のような存在です。どんな困難が降ってこようともどんな最悪の場面にぶつかろうともうまく回避できてしまう存在です。いや、そもそも困難や最悪が近寄ってこないかも知れません。仮に近寄って来たとしても、最良の運勢の持ち主は、それが困難や最悪であると認識できないでしょう。なぜなら最良の運勢の持ち主は、どんな状況・状態も良い方向へと振り替えてしまうからです。そういう運を持っているからこそ最良の運勢なのです。そして最後には必ず勝利とハッピーが約束されているのです。
しかし、マンガの主人公ならともかく、現実としてこのような人物が存在するのでしょうか?
絶対に存在しません。
あらゆる困難や最悪の場面を全て良い方向へ振り替えできる人間など存在しないのです。これはつまり「最良の運勢」を持った人間はいない、と言うことなのです。考えてもみてください。人間に起こりうる困難や最悪の事態は数限りなくあります。それを全て良い方向へ振り替えられる人間を想像できますか?あなたの記憶の中にそれほどの最良の運勢の持ち主として思い当たる人物が浮かびますか?それほどの運勢ならば冗談ではなく世界制服ができてしまうでしょう(笑)。それほどの強運の持ち主は歴史が記録されるようになってから現在まで存在したことがありません。
そうは言うものの現実として「運の強弱」は確かに存在しています。毎日定期的に乗る電車にその日乗り遅れてしまった、しかし乗るはずだった電車は事故で多くの怪我人が出た。交差点で徐行していたら目の前の車の横っ腹にダンプが突っ込んだ。などというケースは実在します。「運の強弱」の違いとしか解釈できないケースが沢山存在するのです。従って名前になんらかの効果があるとするならば「Best」な名前を作る事は不可能だけど「Better」な名前を作る事は可能なのかも知れない、と仮説を立てる事ができます。
ここであらためて認識しておきたいことは、天命数霊術および熊﨑式姓名判断がそれらの対象にはならないということです。天命数霊術および熊﨑式姓名判断は共に、理論上「最高の名前」を作ることができます。ところが、最高の名前で作られているにも関わらず最悪の結果になっている事実がいくらでも存在します。おまけに両占いとも「家族の影響」を上げています。「最高の名前」で作ったにも関わらず「家族の影響」を受けるのは前回のPOSTで書いた通り矛盾しているのです。両占いがどれほど「正しいように見える」場合があっても、それは偶然でしかありません。偶然は存在します。全ての偶然は可能性の振り子の軌道上の点のひとつです。おいらのブログに前にも書きましたが、真理はブレません。真理はそれ以上分解できない内容ですからブレようがないのです。ブレてしまうのは真理ではありません。つまり天命数霊術および熊﨑式姓名判断は「真理の方法ではない」「正しい方法ではない」のです。正しいの方法は別にあると考えるべきでしょう。